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いずみたくの死因は肝不全。なぜ病に?永六輔との名曲や孫・ラブリーサマーちゃんなど家族の絆と最期を解説

いずみたく
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「見上げてごらん夜の星を」や「手のひらを太陽に」、そしてアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌など、みなさんも一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?これらの素晴らしい名曲を作ったのが、昭和を代表する天才作曲家のいずみたく(本名:今泉隆雄)さんです。

いずみたくさんは、生涯でなんと1万5000曲以上もの音楽を世に送り出し、子どもからお年寄りまでたくさんの人を笑顔にしました。しかし、音楽の仕事だけでなく、日本の文化を守るための政治家としても大活躍している最中、62歳という若さで急逝されてしまいました。

この記事では、いずみたくさんがかかった病気のこと、感動的な最期の作品、そして今も音楽界で活躍するお孫さんのことなど、彼の全力で駆け抜けた素晴らしい人生を、小学生のみなさんにもわかりやすく解説します!

目次

いずみたくの死因は肝不全。なぜ病に至ったのか?その最期と周囲の反応

昭和の大作曲家を襲った「肝不全」とはどんな病気?

いずみたくさんは、1992年(平成4年)5月11日に、東京都港区にある病院で亡くなりました。死因は「肝不全(かんふぜん)」という病気でした。年齢は62歳という、まだまだこれからという若さでした。

「肝不全」とは、お腹の中にある「肝臓(かんぞう)」という大切な臓器が、うまく働かなくなってしまう病気です。肝臓は、体の中に入ってきた栄養を蓄えたり、体に悪いものをきれいに掃除したりする「体の工場」のような役割を持っています。この工場がストップしてしまうと、体に強いだるさ(脱力感)が出たり、ご飯が食べられなくなったり、皮膚や目が黄色くなる「黄疸(おうだん)」という症状が出たりします。

肝不全になる原因には、お酒の飲みすぎだけでなく、ウイルスの感染や、病気の治療で使ったお薬が体に合わなかったことなど、さまざまな理由があります。生活習慣に気をつけていても、突然かかってしまうことがある怖い病気なのです。

死因に繋がった闘病生活と、早すぎる61歳での別れ

いずみたくさんが亡くなったとき、世間では「あまりにも急すぎるお別れだ」と大きな衝撃が走りました。なぜ、これほどまでに病気が進行してしまったのでしょうか。

実は、当時のいずみたくさんは、大好きな音楽の仕事に加えて、日本の国を良くするための「政治家(参議院議員)」としての仕事もスタートさせたばかりでした。作曲の依頼をこなすだけでも大変なのに、国会に出席したり、全国の人たちの意見を聞いたりと、毎日が目が回るほどの忙しさだったのです。

いつでも周りの人や日本の文化のことを一番に考えていたいいずみたくさんは、自分の体のことはいつも後回しにしていました。「少し体がだるいな」「調子が悪いな」と思っても、大切な仕事を止めるわけにはいかないと、無理を重ねてしまったと考えられています。その結果、病気の発見が遅れてしまい、病院に運ばれたときには、すでに手遅れの状態になっていたのです。自分の情熱のすべてを仕事に捧げた、いずみたくさんらしい優しさと強さが、皮肉にも病気を悪化させる原因になってしまったのかもしれません。

突然の訃報に永六輔や音楽界の仲間たちが寄せた惜別の声

いずみたくさんが亡くなったというニュースが流れると、日本の音楽界や芸能界は深い悲しみに包まれました。特に、長年一緒にたくさんのヒット曲を作ってきた作詞家の永六輔(えいろくすけ)さんは、まるで自分の半身を失ったかのように深く悲しみました。

また、いずみたくさんに才能を見出されてデビューした歌手の今陽子(こんようこ)さんは、「いずみ先生は私の芸能界の父親であり、恩師です」と語り、先生から教えてもらった「ヒットに頼らない本物のエンターテイナーになりなさい」という言葉を宝物として今も歌い続けています。

さらに、映画や舞台で一緒に仕事をした尾藤イサオ(びとういさお)さんも、「今の僕があるのは先生のおかげです」と涙ながらに感謝を述べました。いずみたくさんが、どれほど多くの人に愛され、尊敬されていたかがよくわかりますね。

いずみたくの最期の作品(遺作)とは?命を燃やし尽くした創作活動

病床でも衰えなかった情熱!生涯最期の作品とその背景

いずみたくさんが、まさに命を燃やし尽くすようにして作った生涯最後の作品(遺作)は、アニメ『それいけ!アンパンマン』の楽曲である「すすめ!アンパンマン号」という曲です。これは、ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』の中で歌われる大切な挿入歌でした。

この曲を作っているとき、いずみたくさんの体はすでに病気でボロボロになっており、ベッドから起き上がることも難しい状態でした。楽譜を書くための鉛筆を握る力さえも、残されていなかったのです。

普通なら、ここで作曲をあきらめて他の人にお願いするところです。アニメの原作者であるやなせたかしさんも、いずみたくさんの体を心配して、「他の作曲家の方に交代しましょうか」と提案したそうです。しかし、いずみたくさんは「この曲は自分が最後まで作りたい」と決してあきらめませんでした。素晴らしい音楽への情熱は、病気なんかに負けていなかったのです。

「見上げてごらん夜の星を」だけじゃない、人々の心に残り続ける名曲たち

鉛筆が持てないいずみたくさんがどうやって作曲をしたのかというと、それはとても感動的な方法でした。ベッドの上で、いずみたくさんが頭に浮かんだメロディーを「ふふん、ふーん♪」と口ずさみ(口述)、それをすぐ横で支えていた奥様が一生懸命に聞いて楽譜に書き写した(写譜)のです。

夫婦の深い愛と、お互いへの信頼があったからこそできた奇跡の作曲でした。こうして完成した「すすめ!アンパンマン号」は、力強くて元気が出る素晴らしい曲になりました。

いずみたくさんが育てたお弟子さんの近藤浩章(こんどうひろあき)さんによると、この曲の楽器の編曲(アレンジ)がすべて終わり、いよいよスタジオで歌手のみなさんが歌を録音(レコーディング)するぞ、というまさにその直前に、いずみたくさんは安心したように息を引き取られたそうです。最後の最後まで、自分の作った音楽が完成するのを見守り、責任を果たされたのです。

ミュージカルに捧げた後半生と「劇団四季」らとの関わり

いずみたくさんは、テレビやラジオで流れる歌だけでなく、ステージの上で歌って踊る「ミュージカル」の普及にも人生の後半を大きく捧げました。「歌はドラマ(物語)である」というのが、彼の強いモットーだったからです。

まだ日本にミュージカルという文化が深く根付いていなかった時代から、たくさんのオリジナルミュージカルを企画・プロデュースしました。そして、ミュージカルを専門に歌って踊れるスターを育てるために、自身で「劇団フォーリーズ(現在のミュージカルカンパニー イッツフォーリーズ)」という劇団を立ち上げました。

さらに、客席が100席ほどの小さくてアットホームな劇場「アトリエフォンテーヌ」を自分で作り、そこで若い役者たちと一緒に、新しい演劇の実験を何度も繰り返しました。劇団四季をはじめとする日本のミュージカル界で今大活躍している名俳優たちの中にも、このいずみたくさんの熱い教えを受け、育てられた人が数多く存在しています。

いずみたくと永六輔の黄金コンビ!日本のポップス史を変えた数々の名曲

永六輔との出会いが生んだ「見上げてごらん夜の星を」の誕生秘話

いずみたくさんの音楽人生を語る上で、絶対に外せないのが作詞家でありタレントの永六輔(えいろくすけ)さんの存在です。二人は昭和の音楽界において「黄金コンビ」と呼ばれ、日本のポップス(流行歌)の歴史をガラリと変える名曲を次々と生み出しました。

二人が1960年(昭和35年)に一緒に作ったのが、舞台ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』でした。この劇中歌として作られた曲を、のちに大人気歌手の坂本九(さかもときゅう)さんがカバーして歌ったところ、日本中で大ヒット記録を樹立しました。

夜空にきらめく星を見つめながら、ささやかだけれど温かい幸せを願うこの曲は、つらいことや悲しいことがあった人たちの心に優しく寄り添いました。今でも学校の教科書に載ったり、多くの歌手に歌い継がれたりしている、日本を代表する名曲中の名曲です。実はこの舞台の現場で、永六輔さんからいずみたくさんは、のちにアンパンマンを生み出す「やなせたかし」さんを紹介されており、この出会いがのちの運命へと繋がっていきます。

「いい湯だな」「夜明けのうた」時代を超えて愛されるコンビの代表曲

いずみたくさんと永六輔さんのコンビは、これ以外にも信じられないほどたくさんの大ヒット曲を作っています。いくつか代表的なものをご紹介しましょう。

曲名 歌った主な歌手 曲の特徴・エピソード
いい湯だな デューク・エイセス
ザ・ドリフターズ
群馬県の温泉をテーマに作られたご当地ソング。のちにバラエティ番組『8時だョ!全員集合』のエンディング曲としてカバーされ、お茶の間の大定番になりました。
夜明けのうた 岸洋子 暗い夜が終わって新しい朝が来る希望を歌った感動的なバラード。第6回日本レコード大賞で歌唱賞を受賞しました。
手のひらを太陽に (童謡) 「ぼくらはみんな生きている♪」の歌詞でおなじみ、誰もが一度は幼稚園や小学校で歌う、命の大切さを教えてくれる素晴らしい童謡です。

このほかにも、岸洋子さんの「希望」や、ピンキーとキラーズの「恋の季節」、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」など、日本の音楽の歴史に残る曲を数々作り上げました。

音楽を通して二人が表現したかった「庶民の哀歓と希望」

いずみたくさんと永六輔さんが作った曲に共通しているのは、決して気取った難しい音楽ではなく、毎日一生懸命に生きている普通の人々(庶民)の喜びや悲しみ、そして明日への希望が描かれていることです。

二人は1965年から1969年にかけて、日本全国47都道府県のすべてにオリジナルの応援ソングを作るという「にほんのうた」シリーズという壮大なプロジェクトを行いました。コーラスグループのデューク・エイセスが歌ったこのシリーズからは、前述の『いい湯だな』のほか、京都を舞台にした『女ひとり』や、宮崎県の『フェニックス・ハネムーン』などが生まれました。

遠く離れた地方で暮らす人たちの暮らしや、綺麗な景色、都会で働く人が故郷を懐かしむ気持ちなど、どんな人の心にも優しく寄り添う音楽を作りたいという二人の温かい信念が、これらの曲にはたっぷりと詰まっています。だからこそ、時代が令和に変わった今でも、色褪せることなく愛され続けているのです。

いずみたくの家族情報まとめ|結婚相手・息子、そして孫はラブリーサマーちゃん!

いずみたくの結婚相手(妻)と、音楽の才能を受け継いだ息子のプロファイル

天才作曲家として素晴らしい功績を残したいずみたくさんは、プライベートの家族関係においては、少し個性的で人間味あふれるエピソードを持っています。

いずみたくさんは、とても情熱的な性格で、「好きになった女性とは、まっすぐに寄り添い、必ず結婚して型に責任を持たなければならない」という強い信念を持っていました。そのため、生涯で4回結婚し、3回離婚を経験しています。お仕事が忙しすぎたり、自分の芸術へのこだわりが強すぎたりしたため、家庭の中では少しわがままで寂しがりやな一面があったようです。しかし、最期まで一緒に暮らした4番目の奥様は、いずみたくさんのお仕事を献身的に支え、前述の通りベッドの上での口述筆記で最後の名曲を一緒に完成させるなど、本当に深い絆で結ばれていました。

また、いずみたくさんには息子さんがいます。息子さんは一般の方なので、名前や顔写真などの詳しいプロフィールは公開されていません。しかし、息子さんはとても真面目で、教育熱心な素晴らしいお父さんになられたそうです。

天才の遺伝子!孫の「ラブリーサマーちゃん」は今注目のシンガーソングライター

いずみたくさんが亡くなったあとに生まれたお孫さんが、現在の音楽界で大きな注目を集めています。そのお孫さんこそが、大人気シンガーソングライターのラブリーサマーちゃんです!

ラブリーサマーちゃん(本名:今泉愛夏さん)は、1995年生まれ。「愛夏(あいか)」という素敵なお名前をそのまま英語に変換して「ラブリー(愛)」「サマー(夏)」という可愛い芸名にしました。彼女が生まれたときには、おじいさまであるいずみたくさんはすでに亡くなっていましたが、お家にはおじいさんの遺した音楽の雰囲気が自然と流れていたのでしょう。

中学3年生からアコースティックギターを始め、高校では軽音楽部で活躍。2013年からは、パソコンを使って自分の部屋で曲をレコーディングする「宅録(たくろく)」を始め、インターネットに音楽をアップロードすると、すぐに「天才的なセンスの女の子が現れた!」とネット上で大噂になりました。その後、大学在学中の2016年に有名レコード会社からメジャーデビューを果たし、現在も大活躍しています。お腹に力を入れすぎない、おしゃれで心地よいゆるめのメロディーが特徴で、若い世代を中心に熱狂的なファンを獲得しています。

★お顔を出さないスタイルの秘密
ラブリーサマーちゃんは、ミュージックビデオや写真などで、自分の顔をはっきりと出さないスタイルを通しています。その理由は「お顔を出さないほうが、みんなに可愛いと自由に想像してもらえるかもしれないから」という、女の子らしいお茶目なこだわりからだそうです。おじいさんの名前を一切借りず、自分の音楽の実力だけでファンを魅了しているところが本当にかっこいいですね!

家族が語る、プライベートでのいずみたくの素顔

ラブリーサマーちゃんが子どもの頃、親御さん(いずみたくの息子さん)からは、水泳や新体操、剣道など、たくさんの習い事をさせてもらいながら、真面目で礼儀正しい家庭環境で育てられたそうです。厳格で真面目な教育方針は、もしかしたらいずみたくさんが芸術に対して常に真剣だった姿勢が、息子さんへ、そしてお孫さんへと受け継がれた結果なのかもしれません。

また、いずみたくさんの親族には、姪(めい)であり劇団の代表を務める土屋友紀子さんや、遠い親戚に有名なオーケストラ指揮者の飯森範親(いいもりのりちか)さんがいるなど、まさに親戚一同が日本の音楽や芸術の発展を支える「芸術の天才ファミリー」なのです。

音楽家だけではなかった!政治家・いずみたくとしてのもう一つの顔

なぜ参議院議員に?政治の世界へ飛び込んだきっかけと情熱

1万5000曲もの曲を作ったいずみたくさんですが、人生の終盤にはなんと「政治家(参議院議員)」としても国会で働いていました。音楽家がなぜ政治の世界へ行ったのか、不思議に思う人もいるかもしれませんね。

きっかけは、大親友であったタレントの青島幸男(あおしまゆきお)さんから「日本の文化のために、いずみさんの力を貸してほしい」と強く頼まれたことでした。最初は1986年の選挙に立候補したものの落選してしまいましたが、1989年に繰り上げで当選し、正式に国の政治を話し合う参議院議員になりました。

いずみたくさんが政治家になった目的は、タレントとして有名になりたいからでは絶対にありませんでした。彼には、「どうしても政治の力で変えたい日本の問題」があったのです。

議員活動で見せた「芸術・文化の振興」への尽力と実績

いずみたくさんが国会で何度も熱く訴えていたのは、次のようなことでした。

「日本は世界でトップクラスの経済的にお金持ちな国なのに、音楽、演劇、美術といった『文化や芸術』に対して国が出す予算(お金)が少なすぎる!」

海外の先進国では、国がたくさんの予算を出して、劇場を建てたりアーティストたちの活動を国全体で応援したりする仕組みが整っています。しかし、当時の日本はまだそうした文化へのサポートが不十分でした。音楽や舞台の大切さを誰よりも知っている当事者だからこそ、「このままでは日本の芸術文化が育たなくなってしまう」と強い危機感を持っていたのです。いずみたくさんは文教関係の委員会に所属し、芸術予算の増額のために、毎日一生懸命に動き回りました。

音楽と政治の融合を目指した、いずみたくの信念

いずみたくさんにとって、音楽を作ることと、政治をすることは、どちらも「人々の暮らしを豊かにして、毎日を幸せにするため」の同じ活動でした。心が豊かになる音楽を届け、それを守るための仕組みを政治で作る。この二つが合わさって初めて、素晴らしい国になると信じていたのです。

任期の途中で病気に倒れてしまい、その熱い志は真ん中で途切れてしまう形になりましたが、亡くなった直後の国会では、他の政治家のみなさんから「いずみ議員は、本当に日本の文化を愛し、最後まで全力で戦い抜いた素晴らしい人だった」と、その功績を称える感動的なお別れの演説が行われました。

まとめ

昭和から平成にかけて、日本の音楽界と演劇界を全力でリードし続けた、いずみたくさんの人生を振り返ってみました。

  • 死因について: 1992年に「肝不全」のため62歳で急逝。音楽と政治の仕事が重なり、多忙を極める中で自身の健康を後回しにしてしまったことが原因とされています。
  • 最期の作品: アニメ『それいけ!アンパンマン』の挿入歌「すすめ!アンパンマン号」。鉛筆が持てなくなっても、病床から口述でメロディーを奥様に伝え、命がけで完成させた涙のエピソードがあります。
  • 永六輔さんとのコンビ: 「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」「手のひらを太陽に」など、教科書やテレビで今も愛される日本の大財産となる名曲を数々生み出しました。
  • 家族のつながり: いずみたくさんの熱い音楽のDNAは、現在大人気のシンガーソングライターであるお孫さんの「ラブリーサマーちゃん」へとしっかりと受け継がれています。
  • 政治家としての顔: 「日本の文化・芸術の予算を増やしたい!」という強い信念を持ち、参議院議員として国会でも大活躍しました。

いずみたくさんが遺してくれた1万5000曲以上の素晴らしいメロディーは、今この瞬間も、どこかの街やテレビ、学校で流れて誰かを元気にしています。彼の熱い情熱と優しい心は、これからも私たちの心の中で永遠に生き続けることでしょう。

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